昭和に入ってレコードが登場し映画も無声映画の時代からトーキーになるなど、大衆娯楽の分野も大きく様変わりを始める。それとともに大衆に提供される作品への官憲による弾圧も強化されてゆく。さまざまな制限の下であったにせよ「大正デモクラシー」と謳われた時代は過去のものとなってゆく。
おそらくほとんどの方がご存知の渡辺はま子が歌った「忘れちゃ嫌よ」。昭和11年に発売されたこの曲は、すぐに発売禁止となった。理由は「あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。エロを満喫させる」というもの。当時は21歳、音楽学校出身で正統派の歌手だった渡辺はま子が、この歌のサビの部分がなかなか上手く歌えず、最後は泣きながら歌ってレコーディングのOKがやっと出たという、そのサビの部分が引っかかった。すでに評判となっていたレコードを諦めきれなかったビクターが、「月が鏡であったなら」と改題し、最初の発売ではB面であったこの曲をA面に改めて発売、大ヒットとなったという。
ついでにこの年の暮れに渡辺はま子が大阪の大劇に出演した時の新聞記事をご紹介しよう。
見出しは「渡辺はま子 またお目玉 “忘れちゃ嫌よ”の甘い旋律を 大劇で ウッかり唄って」という二段三行の見出し。
「甘ったるいメロディーの流行歌『忘れちゃ嫌よ』のビクター専属歌手渡辺はま子さん(22)がまたも自慢の『忘れちゃ嫌よ』がたたってお灸をすゑられた再度の受難—
『忘れちゃ嫌よ』は去る六月下旬当局の忌諱に触れて 全国的に禁ぜられたが当のはま子さんは三十一日から大阪千日前大劇に「五人組小唄競演大会」に出演してゐたが
一日観客に所望されるままに改訂版の『月が鏡であったなら』を唄うところを例の甘ったるいメロディーで禁ぜられている『忘れちゃいやんよ』と唄って観衆をうならせたが、忽ち島之内署の忌諱に触れ同夜十時大劇蒲生支配人とともに同署に召喚されて瀬川司法主任の取調べを受けたがメロディーがたたる再度の受難にさすがのはま子さんもしょげ返ってゐる」 (記事は三段)
なお、翌々日の新聞は渡辺はま子が出演禁止の処分を受けたことを報じている。
レコードの方の発売禁止理由として最も多かったのが「お色気」だったようだが、映画はむしろ思想面(当時は「傾向映画」と呼んだ)が取り締まりの中心。
昭和5年の朝日新聞、「ニチヨウのページ」でこの「検閲」問題を取り上げている。その中の一つ、映画監督の辻吉朗氏の文章からご紹介しよう。辻吉朗氏は昭和初期の監督で大河内伝次郎や林長次郎(後の長谷川一夫)などの映画を撮っている。文のタイトルは「魂まで切る 厳しい当局の検閲ぶり」。
映画の検閲には内務省令によって公布せられた検閲法規といふものがある。例へばその第三条に「検閲官庁ハ前条ノ規定ニ依リ検閲ノ申請アリタル『フイルム』ニシテ公安・風俗又ハ保健上障害ナシト認ムルトキハ『フイルム』ニ検閲済ミノ検印ヲ押捺シ(以下略)」といふのがあるが、この条文の内容とするいはゆる公序良俗なるものが如何なるものなるかは漠としてその要領を得ない。
私の映画は比較的エロよりイデオロギーの方がより多くカットされるのであるが、私の主張の如何なる点が一体公序良俗に反するのであるか、自分として実に解釈に苦しむ場合が多いのである。
私の『傘張剣法』(日活・白黒無声映画。公開は昭和9年。笹田注)の如きはその最も重要性のあるラストの場面をカットされて全く悲観したことを記憶している。同映画のラストは想三郎が主税を斬り捨てた後、長屋連中と共に貧乏人万歳を絶叫する場面になっている。
“人々よ生活が貧しいからとて卑下する必要は断じてな
い”
“さあ手を差し延べよう”
“正しき勝利のために” (以上画面文字。笹田注)
そして貧乏人達は義憤と感激に思わず万歳を高唱するのである。貧乏人らしく雄々しく頼もしい姿ではないか。製作者のいはんとするところもここにある。だがこれらのタイトルと画面とは検閲官のいはゆる公序良俗に反するの故を以てバサリと切って落とされてゐるのである。
殊に検閲保留半歳の後漸くその憂目を免れた『維新暗流史』(昭和10年公開・日活。白黒無声映画。制作は昭和4年。笹田注)第二編の如きはカット尺数実に600メートル。全長約1700メートルに比して三分の一以上のカットである。これでは何と諸君、解る写真も解らなくなるのが道理ではなかろうか。(以下略)
昭和初期の映画検閲実態の一部をかいま見る思いがする。私の放送でもこの文は紹介したのだが、同時に当時はまだこの文章が新聞紙上に掲載されていたということに注目したい。
ご承知のように「朝日新聞」など各紙が完全に右傾化し戦争賛美の側に回るのは昭和6年の「満州事変」がきっかけだが、この特集が組まれた昭和5年には、まだ良識のかけらが残っていたというべきなのだろうか。
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